安房を想う人のブログ

遥かむかし、平将門征伐に加担した責めを追及され安房の地陽の目の里(ひのめのさと~丸山川河口付近)に逃れ来た士族と西方より東方の新天地を求め来た漁民を先祖に持つ私はこの安房の地に強い愛着を持って70余年を生きて来た。戦後20数万人居た、千葉県人口の1割近くを擁した安房の人口が、2%余りに衰退してしまった事に大きな寂しさを感じ、私の子供の頃の活力ある安房の思い出を書きこれからの安房を考える一助として頂きたい

安房が輩出した世界に通用した政治家

安房の山里に育ち、尋常高等小学校を卒業す

る時、親から中学進学は諦めろと言われた

少年をあわれに思った既に嫁いでいた姉は、

亭主に相談したそうです。

地主であるご夫君は、「私が学費を負担する

、里へ行って親に頼んで上げなさい」と言

ってくれました。

明治末期、鉄道開通には20年も待たねば

ならない、自動車も無い時代、姉さんは馬の

背に乗ったのか?野道山道を駆けたのか?

嫁ぎ先から実家まで20km余りを急ぎ、

親に亭主の思いを伝え旧制安房中学校受験

が決まったのは願書提出期限ぎりぎりだっ

たそうです。

受験準備もないままに安房中学を首席で入

学した代議士の卵さんは、安房中学校では

寄宿舎に入り柔道部の稽古に没頭する生活

を送りました。

さすがに高等学校の入試には合格出来ず浪

人するはめに、その間紹介者があって千歳

尋常小学校の代用教員を勤めています。

その後、高等学校、京都大学へと進み、卒

業後は東京都庁へ入りますが、政府の高級

官僚の令嬢と見合い結婚をして昭和10年

代の戦中生活は、家族を安房疎開させて

過ごしました。

第1回総選挙は、中選挙区制で現在の山武

市から千葉市土気以南の広い千葉県第3区

で戦いました。

支持者の核は、安房中学柔道部の同窓生です。

高校入試に滑り代用教員を勤めた時の初めて

の教え子です。

戦中の疎開をお世話された方々です。

皆々、30年を空白としない人脈が候補者

の財産でした。

そして安房の活力が初当選を導きました。

千葉市南部、木更津市から夷隅、山武郡

至る広い選挙区の核は安房中学由縁の活力

でありその活力は本人の人と柄によって形造

られたものです。

相手構わず、誰でも大切にされました。

私も大事にされた一人です。

前述の高級官僚のご夫人 、代議士の奥さん

のお母さんが、安房高校茶道部教授をな

さってくださっていらした関係から私は、

内弟子同様に茶道の先生に可愛がられ館山

のお宅には良く伺っていました。

おばあちゃんの不在の時は、代議士先生は

ネクタイを外しどてらを羽織り寝巻きの紐

で前を結び茶の間に大きな体であぐらをか

いてご飯を食べたりしていました。

「おおい、角さん(女中さん)ご飯もう一つ。

君も一緒に食べろ。」と言ってご相伴に預っ

た事も何度も、

都度、20歳そこそこの子供の話を真剣に

聞いくれていました。

昭和43年のある日伺った時は、玄関で挨拶

してご返事はありませんでしたが、何時もの

習慣で茶の間までは上がって良い事でしたの

で廊下を進むと大きな代議士先生の電話の

声が聞こえ、大変なところへ上がり込んでし

まったと立ちすくみました。

気ずかれた先生は、「こっちへ来い」と手招

きをなさる、茶の間の廊下に座ろうとすると、

中に入れと又手招きをされる、茶の間に座っ

て電話の一部始終を聞く事となりました。

とても他人に聞かせる内容ではなく思いまし

たが、先生は政治の重要性をしっかり認識す

るように諭しかつ奮起を促していらした電話

だったと聞きました。

純粋なご自身の気持ちを、純粋な若者の耳に

しっかりと聞かせおこうとなさったのかと思

っています。

電話が終わっても解説は一切ありませんで

した、聞かされ放なし聞き放しで何時もの

世間話に進みました。

その内容は、半世紀を経た現在でも、安房

君津の政治に生き続けている事柄です。

私は、口外していません、

がお話しの本質が少しでも実践出来るように

心掛けています。


選挙期間中のある晩、裏選挙対策拠点とも

言うべき自宅の事務所に酔っぱらいが訪ね

て来ました。

誰もが対応に苦慮していると、おばあちゃん

が相手を始めました。

禁止されているお酒ではなく、お茶を出し、

ぐずる酔っぱらいをなだめていました。

丁寧に相手をされていました。

私は、後日どうしてあそこまで丁寧にされた

のかうかがいました。

「あの方も私も一票です。あの方に納得して

頂く事の連続が代議士の支持者を広げます」

と言う事でした。

時代は大きく下り平成17年初頭、鴨川市

で千葉県主催のある集会がありました。

県主催とは言いながら、参加者はほとんど革

新系の人達でしたが、保守の来賓の方の話し

は鴨川が生んだ代議士先生の偉業の羅列に終

始しました。

亡くなられて既に4半世紀を経てなを、党派

を越え、支持勢力を越えて話題にされる事に、

代議士の偉大さをしみじみと感じました。


話題は現役時代に戻ります。

昭和46年、戦後日本が長く維持して来た

対ドルレート360円はアメリカとの軋轢を

生みどこまで切り上げられるか?一時的な

変動相場の中で国内の経済情勢を見詰めな

がらの交渉となりました。

当時国内では、330円位で妥結出来れば

との意向でワシントンでの交渉に臨みました。

結果は、308円を基準としてプラスマイナ

ス2、5%の範囲で運用すると言うものでし

た。

則ち308円を基準として、上限約315円

下限約300円の範囲で為替レートを運用す

ると言う事です。

国内では意見が沸騰したと記憶しています。

しかし、日本政府代表の大蔵大臣は、

「いずれ、又同様な交渉が成され最終的に

は自由な変動相場に移行する事になる、今

少しの期間ぬるま湯に安住するより産業界に

は次のステップを見詰め頑張って頂きたい」

と厳しいと思われる正論を披れきして納得

を求めました。

今日、令和4年4月12日の円相場は125

円プラス、当時の3倍に価値を高めています。

それでも、円安で輸入に支障をきたしていま

す。

126円に値下がりした円相場についての

感想を求められた現財務大臣

「私のコメントが円相場に影響してはいか

がなものか、意見は差し控える」としか言わ

なかった。

引き替え、スミソニアンでの会議で変動固定

相場308円で妥結させた当時の大蔵大臣の

自論持論がいかに正しかったか。改めて考え

させられます。

自らの利益ではない、自らの懐ではない、

国益に全精力を傾け続け、正論を言う姿勢

安房の後輩の一人として誉れを覚えます。


願わくは安房を背負う今の政治家が、ご紹介

した代議士のように滅私奉公の精神で政治に

関わって頂きたいと思うものです。