安房を想う人のブログ

遥かむかし、平将門征伐に加担した責めを追及され安房の地陽の目の里(ひのめのさと~丸山川河口付近)に逃れ来た士族と西方より東方の新天地を求め来た漁民を先祖に持つ私はこの安房の地に強い愛着を持って70余年を生きて来た。戦後20数万人居た、千葉県人口の1割近くを擁した安房の人口が、2%余りに衰退してしまった事に大きな寂しさを感じ、私の子供の頃の活力ある安房の思い出を書きこれからの安房を考える一助として頂きたい

私の母校はありません

昭和の大合併で千歳村は千倉町に合併しま

した。直後に分町運動が起こり、旧千歳村

域で1戸1票の住民投票を行い丸山町

を構成するに賛成の多かった地域は岱単位で

分町し丸山町に吸収されました。

則ち、久保区真野は丸山町に、白子区中原、

三島も丸山町に、峰区、安馬谷区が丸山町

となり、

白子区元田、南北、川合区、久保区久保が

千倉町に残留する事になりました。

千歳村の課題は、千歳小学校、中学校の

運営です。

丸山町、千倉町は、教育事務組合を結成し

当面の運営に当たりました。

組合立千歳小学校、千歳中学校の誕生です。

日本でも初めてと言われる住民投票までし

て分町までしましたが学校を分けることは

しませんでした。

しかし、

千倉町は、旧千倉中学校の校舎新築を迫られ

ていて、統合新千倉中学校建設へと進み、

昭和32年9月に開校します。

組合立千歳中学校は同日をもって廃校となり

千歳村が戦後の動乱期に校舎を新築して

開校した新制千歳中学校は、開校以来10

年を経ず存在意義を失くしました。

丸山町は町南部に丸山中学校を新設して

全町の中学生を1校に集めて教育する事と

なりましたが、弊害も起きました。

最北部大井地区の生徒の通学手段が確立出来

なかった事です。現在の国道410号に相当

する道路が未改修で自転車通学もままならず

長狭中学校に越境通学する生徒も生じて

います。


爾後、千倉町は旧健田小学校の改築にも迫ら

れます。

改築面積と児童数による国庫補助率の関連から

組合立千歳小学校児童の内千倉地区の児童を

健田小学校に編入する奇策を企て

「組合立運営による千歳小学校の学力低下

を解消する」を大義名分に 組合立千歳小学校

の解体に着手します。

結果、昭和37年には組合立千歳小学校は

廃校となりました。

丸山町立千歳小学校として存続しますが南

小学校を新設して千歳小学校は完全に使命

を終えています。

明治以来、白子村、峰村、川合村、久保村、

安馬谷村の千歳旧5村からの教育を担った千歳

小学校は姿を消し、そこに学んだ千歳地域の

人々は母校を失くしました。

心のよりどころを失くしました。

千歳地域の70歳以上の年代は千歳小学校

卒業の連帯感により千歳意識を持ち合わせ

ましょうが、それより若い人々には無理です。

明治の合併のとき、安馬谷村、白子村の知恵

者5人が相談した新村名が「1000年継続

する願いを込めて」千歳村だったと聞いて

います。その千歳村の心の中心施設千歳小学校

が100年を待たず行政の都合で廃校となり

ました。

組合立千歳小学校の教職員と児童の名誉の

ためにしっかりと申し置きたいことは、

「組合立故の児童学力の低下」はなかった。

と言う事です。

後に、富浦町町長となる忍足三郎校長先生

の牽引力により学力は高く維持されました。

統合新千倉中学校が入学時に行った試験結果

に千歳小学校卒業生が450人中1位に位置

した事で証明されます。

新丸山中学校でも千歳小学校卒業生は上位に

位置しました。


今考えなけれならない事は教育とはなんぞや

です。

心を無視したものであってはなりません。

住民の心です。「おらが学校」「おが行った

学校」意識です。

行政の効率化を優先して学校が持つ伝統に

基づく自負心を蔑ろにしてはなりません。

北三原の山里にあった分校を廃校後に宿泊

施設に利用出来たのは、地区の人々の「おら

が学校」意識によるものと思います。

分校を統合した北三原小学校がありません。

和田小学校がありません。

南三原小学校がありません。

和田中学校がありません。

南三原中学校がありません。

大井分校は早くになく、丸小学校もありま

せん。

豊田小学校と千歳小学校を統合するという

大義をもって造られた南小学校もない。

山里に、村に、町にあったからこそ学校は

住民の心の求心力でありました。

学校を統合したら住民の心も統合出来たので

しょうか。

出来はしません。住民の心は通学バスに乗れ

ないのです。

千倉小学校はいつの間に出来たのでしょうか。

平成の一桁代、旧健田小学校の一部保護者

から校舎改築の発議がありました。学区住民

を動員して大貫区長を責任者に据え会議を持

った事がありました。

その時点での水面下の接触では、千倉町中枢

は改築計画を描き始めていましたので活動

するには至りませんでした。

但し、町内4小学校を統合するというもの

ではなく単純健田小学校の改築だけをする

というものでした。

よって、千倉小学校の新設は、前述の旧和田

町、旧丸山町地域の学区改悪とあいまって

新市の意向でなされたものと思わざるを

得ません。

狭く旧、旧千倉町の住民意識を見るとき

旧朝夷小学校学区住民と学校の、学力の先行

性に対する自負、平舘忽戸住民の旧忽戸小学

校に対する愛着心は際立ったものがあったと

感じるのは私一人ではないと思っています。

一部例示しましたが、明治の義務教育開始

に始まる150年に及ぶ学校運営に関わる

諸々は、一朝にして瓦解させる事柄ではあり

ませんでした。

明治維新に発起された義務教育発露の心は

継続されねばなりません。

千歳小学校創建時、学校敷地は全てが千歳村

により買収されたものではなく、所有者より

寄贈されたもの、更には使用するを了解願

っただけのものも含まれていたやに聞いて

います。

村民のそれほどまでの学校創建に協力する

心の結晶を後世の行政の目先の都合により

無にしてはなりません。

平成10年頃、旧千倉町のある町議員の私見

により旧千歳小学校敷地を換金処分して旧

千倉町、旧丸山町で分配しようとする運動

がされた事がありました。この町議員氏は

満を持して、町政座談会で提案しますが、

一区民の強い反対意見陳述「千歳小学校

創建時の協力の証しを継承しろ、後世、

文教施設又は公共用地としての計画が出る

まで保存すべし」により、時の山口功町長

は換金処分は行わないと即決しています。

現在、経済施設に利用されているようですが

使用するに当たり、潜在所有者である旧千歳

村民の了解を得たのでしょうか?。

少なくも私は聞いていない。

70年の昔、旧千歳村民は一旦合併した千倉

町からの分町の賛否を住民投票により決して

いる。民主主義の先駆者である、そこに由来

する最大にして唯一の土地処分には、旧千歳

村民の了解を必要とする民意尊重の行政が

求められる。

これこそが民意を尊重する地方自治の原点で

あろう。


他方、白浜地区では現在中学校統合問題が

提起されているそうな。

現校舎は、建設後10数年しか経ていないと

思慮する。

以前の校舎は、維持管理上問題があったかに

も聞いていますが、かの旧校舎は時のわがい

町長が特に採光面に配慮して設計したもの

と聞き及んでいます。

既に完成して15年を経過した隣の千倉

中学校舎の旧態依然とした姿に対する競争心

があったのかもしれません、白浜町長が

千倉町長と房中で同期なので競争心が、斬新

な校舎を発案させたのかも知れません

何れにしろ、旧白浜町が造った斬新な校舎の

欠陥是正のために、新校舎建設を発議し新市が

建設して日の浅い中学校を廃する計画性の

なさは、旧白浜町民への主体性無視と相まって

地方自治体の基本である民意を尊重した自治

経営からの大きな逸脱であります

「子供が少なあなっただもんしょうがねえ

やでよ」

「人数がいっぺえでねえば部活が出えねい

っていゆうばしょうがねえやでよ」の諦め

妥協の考えが根底に存在するに廃校に同意が

出来たとの判断は為政者の間違った独断を

強行する言い訳に過ぎません

前述の通り、学校の存在は住民の愛郷精神の

礎です

郷土を愛する心無くして市の発展はありま

せん

学校の維持と地域の、市の発展は表裏一体と

考えるべし

何よりの証拠は、新市移行後廃校の数に比例

して人口は3分1も減少している現状を直視

しなければなりません

学校を廃校にして他の如何なる施策をしても

市の人口は増えません

住民は

歩いて学校に通える事

役場に、買い物に歩いて行ける事

取り敢えずの病院は歩いて行ける事

が住居を選ぶ基本という

自動車に乗れない子供が大事

自動車に乗れなくなった老人が大事

住民は少子高齢化対策を念頭に住居を選定

するそうです

当市は発足当初は上記3条件が揃っていた

地域が多かったにも関わらず16年をかけて

壊し続けて来てしまった

取り返しのつかない大罪です

まずすべきは罪を重ねない事です

私の母校千歳小学校は無い

30分を歩いて登校すると校門左手の学校園

に熊手を手に立つ校長先生のお姿が目に浮か

びます

統合千倉中学校には同じ感慨は浮かばない

中学校進学の時父親に言われた

「お前は喧嘩ぱやくっていけねい、千倉の

暴力中学には行かないで和田中学へ頼むから

そっちへ行け」と

「千倉中学が暴力中学なら俺が行って直す

からいいよ」と答えて千倉中学校へ行った

思い出位です

親の行った学校へ自分も通える事は最大の

幸せ❗️

この心が合わさった時地域の発展があります

心合わせる基本が学校です

かの千歳小学校の黒光りのする玄関を入ると

天井に「定置網の模型」飾ってありました

2階の図書室には28インチの大型テレビが

設置され昭和20年代から授業に活用されて

いました

これは、有志村民からの寄贈です

校舎裏の1反歩を12に区分けした学級園の

低学年の区分は父兄の助力で成り立っていま

した

子供の教育は、行政と教職員によってのみ

成されるものではありません

保護者、父兄、住民が一体となって力を合わ

せて初めて花開くものと受けた教育からの

実感です

先頭に立つのが行政だと認識すべきです

故に、学校を大切にする事、これが自治体の

最大の使命です

木更津市は、小さな学校を存続させる為に

広域通学制を採用しています

向こう何年後には地域人口を増やし、もって

児童数を増加させ学校経営を安定化させる

目標を掲げています

その為の経過措置として通学を便利にする為

に専用通学バスの運行を始めました

出来ない努力を厭わない自治体も有るのです

衰退する現状に妥協する行政は政治とは

言えません

行政の先頭に立つ者の意識改革は当然の事

ですが、行政職員則ち公務員一人一人の意識

改革こそ大切です