安房を想う人のブログ

遥かむかし、平将門征伐に加担した責めを追及され安房の地陽の目の里(ひのめのさと~丸山川河口付近)に逃れ来た士族と西方より東方の新天地を求め来た漁民を先祖に持つ私はこの安房の地に強い愛着を持って70余年を生きて来た。戦後20数万人居た、千葉県人口の1割近くを擁した安房の人口が、2%余りに衰退してしまった事に大きな寂しさを感じ、私の子供の頃の活力ある安房の思い出を書きこれからの安房を考える一助として頂きたい

市原市の中学校で暴行事件

新聞報道によれば、市原市の中学校で

暴行いじめ事件があり、昨年9月から

11月まで3ケ月間継続し、12月に入

りいじめられた生徒は登校不能となり

ました

12月下旬この生徒は、市長宛に実情を

訴える手紙を書き、市長がこれを即刻

取り上げて発覚したそうです

学校教育は、皆様もご承知の通り一般

行政則ち市長部局からは独立し、議会の

指名した教育委員が互選する教育長の下

に市教育委員会を構成し、県教育委員会

から派遣された教職員をもって運営され

ています

則ち、町の父兄の私見やしがらみに左右

されない、独立性と自由度の高い組織で

有り、高度な専門性が保証されている

組織です

この独立性と自由性の基本は、77年の

昔、日本が敗戦によりアメリカの統治下

に置かれた時に、教育委員会制度を定め、

教育委員を選挙で選んだ時代に遡りま

しょう

しかし、

現在の教育委員会制度は、教育委員の

使命感の不足と形骸化、市教育委員会

教職員の人事権が無い事等に依る、教育

長の学校現場への指揮権の不徹底等が

相乗し、教育委員会制度の所期の目的

「教育の独立性と自由性の確立」

と言う高尚な目的から大きく逸脱し、

児童生徒の日々の幸せと学業の探究と

いう学校教育の目的達成に程遠い学校が

出現してしまっています

本来絶対的で有るべき教職員に対する、

児童生徒、保護者からの信認が失墜して

しまっている状況を多く見る事は、看過

出来ません

今回の、市原市立中学校のいさかいの

詳細は承知致しませんが、問題は、

学校内に於ける事件について、3ケ月も

の間担任教師、教頭、校長が認識出来な

かったところにあります

本来、

直接の指揮権を持たない市長をして

市長が認知して1ケ月を経た1月末の

記者会見で市長が

「激しい憤りを感じる」

と吐露するは、1ケ月間に及ぶ善後策の

協議にも満足のいかない学校現場と市

教育委員会の姿勢が見て取れます

私は、この事件について、当事者である

市原市教育委員会市原市役所、県教育

委員会の5つの課の課長職に糺しました

5者の内、納得のいく受け答えの出来た

方は、市役所課長職と県教育委員会教職

員課課長職のお二人のみでした

統括担当課である県教育委員会児童生徒

安全課課長職は、

「報道以上の内容は承知していない」と

うそぶいている始末です

これで子供の安全が守られるのでしょう

か、何の為の安全課なのでしょうか

 

私事ですが、

もう20年近く昔、息子がぽつりと言い

ました

「死んじゃおうかと思った事がある」

その時、私は只聞き流しました

しかし、日が経つ程に真実味が増します

息子の同級生は、中学生の時マンション

の12階から身を投げています

私は、その現場を目撃しています

息子が通った中学校は私の母校でもあり

ますが、私が中学校に進む時私は親父が

「暴力中学はやめて隣村の学校へ行け」

と言う事に反論して

「暴力中学なら俺が行って直すから良い」

と言う事で千倉中学校へ行きました

私を含めて5人の生徒が問題児だったで

すが、

腕力の強い者に対する挑戦であって弱い

者いじめは聞いた事はなかった

先生方は、ぎっしりスクラムを組んで

対応されたから3年間大きな事件に至る

事なく過ぎました

それから30年を経た息子の時代の指導

体制の問題は深刻でした

教師に指導する能力がなく、生徒と対峙

してしまう

本来成すべき生徒間の指導を忘れ、

ありもしない教師自らの正当性を主張

しようとするから生徒間の指導は遠うの

くばかりであった

その指導の不行き届きを生徒の不足とし

て成績簿に書き、自らの不足をどこにも

記載されない

成績簿に記載された実体に異なる記述

は、内申書に転載され生徒の大きな不足

として一人歩きしてしまう

こういう状況のどこに児童生徒、保護者

による教師に対する信頼感が醸成されよ

うか?

その息子の就学時から更に4半世紀を

経て教育現場は、県教育委員会と市教育

委員会の二重管理体制に意欲の無い教師

の存在により更に疲弊していると強く

指摘します

進学を控えた孫の親は

「学力を考えたら私学にやりたいけど

お金が無いから出来ない」と言う

私が高校に進学する時代には、公立は

絶対的信頼を持っていた

現代にあって、

教育の世界の奮起を渇望してやまない

 

随時更新します

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福度日本一の町鳩山町

新聞の小さな記事によりますと、

埼玉県鳩山町が、民間企業が行う住民に

対する「街の幸福度」 調査で2年連続

1位になったそうです

民間企業による意識調査といえども

平成31年から継続調査していて、調査

に回答された方は、全国で延べ65万人

に及ぶそうです

居住する自治体に対する印象を

「大変に幸福に感じる」から「非常に

不幸に感じる」までの10段階の中から

選んでもらいこれを集計して順位を決め

るそうです、単年毎の比較ではなく過去

の結果へ新しい調査結果を上乗せしての

比較だそうですので変動は少なく安定し

た数値が得られるかと思われ、

鳩山町が 町民から信頼され町民も住民で

有る事に満足している顕れと読んで

よろしいと思うところです

鳩山町は、

平成21年より、「町民の健康つくり」

「介護予防」の徹底に尽力して来たそう

です

近隣の大学の協力を得て

「筋力の向上」を目的とした、施策にも

注力して来たといいます

この様な町の雰囲気が高齢者施設の充実

につながり、高齢者といえども1町民と

して行政に参画している意識を明確に

しているから「大変に幸福」に投票する

のでしょう

町当局は、今後の課題として、育児世代

への施策を充実して若い人口を増やす事

に努めると役場の若い職員が言ってい

ます

新聞の記事からだけの感想ですが、

高齢化率の高い町は、とかく沈滞し易い

ものでしょうが、明るく希望を持った

雰囲気が充満している姿が羨ましい❗️

そこに幸福度日本一の町がひっそりと

存在するのでしょう

 

我町を顧みる時、日本一の街鳩山町

ようなしっくりとした幸せを感じる事

が出来るだろうか

平成20年以降で人口は20%以上減少

した

人口減少に合わせ市の組織を縮小均衡

で対応するに専心し、人口増加政策は聞

いた事がない

このあまりにも消極姿勢に意見したが、

その回答に今回程希望の持てない回答

状況は過去には無かった

私の持論は、市の組織は将来拡大出来る

芽を温存し、現役の職員はその芽に水を

やり、出来れば栄養を与え大きくする

努力をすべし、ですが話した職員は、

縮小均衡歳出軽減政策に没頭しています

縮小均衡への臆病神には、拡大成長の

思想は存在しません、存在しない芽は

芽吹き様がありません

芽が有れば、いつか芽吹きましょうが、

枯木に花は咲きません

大変に残念な事です

今更再考出来ないにしても同じ轍は踏ん

ではいけませんが、その意欲さえ感じな

い事はあまりにも残念です

 

主査級の若い職員とも話しました

肩入れして来た事業が挫折するやもしれ

ない

この事業については、廃止では無く冬眠

させて再起を模索したい

と話していました

ここ一番どっこいしょという話しぶりに

安堵と大きな期待を持ちました

頑張ってください

いつかの芽吹きに繋げましょう

 

幸福度日本一の鳩山町の記事を読み我が

市になぞらえてみました

 

 

 

 

 

 

 

行政の対応姿勢はかく異なる

つつが虫病への対応について関係

部局に聞き取り調査をした

まず、安房保健所

担当課長の対応を求めたが応じず技師が

説明した

技師は、今回の死亡事故についての認識

はしっかりしていなかった

即ち、

死亡者が、船橋市保健所管内に住所を

有し、死亡地が安房保健所管内ではない

が為、安房保健所が関与する案件に当た

らずという事であろうか?

しかし、

私が、問題にするは、船橋市の方の感染

地が安房であると想定され、つつが虫病

安房の風土病と認識されて  長く安房

保健所を中心とする安房郡市の医師団

の特段の努力により死亡事故からの回避

に努めて来られた歴史に鑑み、過去、

例の少ない患者死亡❗️

それも原因不明のままでの死亡であり、

死後になり原因が判明したという医療の

認識不足による事故であるが故に、

つつが虫病に対する治験を多く蓄える

安房保健所が関与すべきる場は無かった

のかという事であった

この大きな問いかけには答えの出来ない

ままでした

次に、

つつが虫病が発生する秋から現在までの

状況を尋ねました

9月1件

10月1件

11月5件

12月30件という事でありました

この発生件数は、つつが虫病治療の門外

漢である私にも大きな異常件数である事

は容易に理解出来驚き、安房保健所の

対策は如何にと尋ねましたところ、

記録してありますが、それ以上の対応は

特段していませんとの事でした

やはり、

技師レベルにこれ以上の追及は無理と

思い再度課長の対応を強く求めた

9月よりより発生を見て、11月5件

12月30件と急上昇したにも関わらず

この異常と言える多発状況を広く周知し

これの防疫への努力何故をしなかったの

か?

管内市町の協力を得て広報に徹っした

ら今回犠牲になられた方にもつつが虫の

怖さが伝わっていた可能性がある

 千葉県内の保健所に通知しそれぞれ

管内の医療機関への周知を謀る様依頼し

ていたら、この方を診察した医師につつが

虫病の情報が伝わっていて適切な先行

治療が出来たであろう

この人がつつが虫病について承知してい

たら、治療の際つつが虫感染の可能性を

申告し死亡には至らなかったであろう

更には、

死亡された方が、感染したであろう場所

は特定されているのに関わらず、

「千葉県南部地域」と特定出来ない表現

を言うは2次3次の感染を防止する為に

ならない、何故に隠蔽するのかと言うと

課長曰くその場所に対する風評被害

回避する為と言い放った

風評被害が発生するならこれを防止する

事も行政の仕事であり、つつが虫病の

2次3次感染を回避するは防疫機関

安房保健所の重要な仕事である認識に

不足するところ大であると強く指摘した

次に、安房地域の4市町の衛生担当責任

者に質した

4者は異口同音に

つつが虫病の多発の事実を承知していな

いと答え早速に感染注意喚起の啓発を

行うとした

ある自治体は通常の連絡網に加えて

SNSも利用して周知を謀り、もって感染

する人の減少に努めたい、と答えました

4市町がつつが虫病多発状況を認知して

いなかった原因は医療機関からの診察の

報告を受け、取りまとめる安房保健所か

ら通知を受けていなかったからに外なら

ない

安房保健所の啓発怠慢の責任は重大で

あります

安房保健所が、安房郡市町4自治体の

保健衛生担当責任者に共通する高度な

防疫認識に同等の緊張感をもってこれ

まで安房 地域に於けるつつが虫対策を

行って来たから長く死に至る患者を出さ

ないで経過したのであって、現在の様な

緩急した保健所認識をしてすれば患者

死亡と言う不幸を惹起するは必然であり

ます

次に、

船橋市役所の保健衛生責任者の話

船橋市の保健衛生業務は、

船橋市保健所が担い市役所本所には、

認知機能はないと冷たく言い、1市民

の死去より組織防衛を優先した言いま

わしに終始しました

何度でも言いたい

公務員は、与えられた職責を最大限全う

し、かつ関連する事項に及び、もって

合計で公務員の本分を果す姿勢を主権者

に示すものだと認識しています

死は絶対に回復出来ない現実であります

保健衛生に携わる公務員は、その職務に

全身全霊を捧げげて頂きたい

今回のつつが虫病による患者死亡に際し

強く指摘します

 

適宜修正を行います

 

 

 

 

 

つつが虫病で死亡、行政の責任

新聞報道によれば、船橋市方面に住む

方がつつが虫病でお亡くなりになられた

そうです

この方は、12月に県南部地域で過ごし、

その後発熱した

原因不明のまま適切な治療を受ける事な

く年末に死亡された

死亡後に血液検査の結果からつつが虫病

が原因であった事が判明したそうです

これまでの安房地域に於ける医師団の

つつが虫病対策への努力の蓄積を見る時、今回の発症治療に対し、その治療経験と

安房保健所を主体に備蓄されていた筈の

新規発症患者に対する対応が何ら生かさ

れなかった事は余りにむなしい

更には、

安房在来の住人であれば、つつが虫に

ついての知識は有しているところである

が、今回亡くなられた方のように

つつが虫病の基礎知識を持ち合わせずに

いる人がつつが虫が生息する安房に来て

日曜農民をする

この様な方々の誘致に積極姿勢を示して

来た安房郡市自治体は、安房の自然の

最大のリスクであるつつが虫病について

どれだけ周知の努力をしてきたであろう

その努力の不足が、いや、努力をして

いなかった結果が今回の死亡事故を惹起

してしまったと言わざるを得ない

ましてや、

安房保健所における、報道機関に行った

発表によれば、この亡くなった方が

つつが虫に刺されたであろう場所は特定

されているにも関わらず、

「千葉県南部地域」とあえて特定出来な

い表現をしている

理由は、特定する事に依る

風評被害」を防ぐ為と発表責任者は

広言して憚らない

特定し周知する事により同一場所での2

人目、3人目の罹患防止が出来るはず

なのにこの利益を放棄しては防疫責任者

としての不適切な判断である

更には、昨秋、安房地域に於けるつつが

虫病は過去に例を見ない頻度で発生して

いた

9月に1件

10月1件

11月5件

12月30件

という異常に気付いていたにも関わらず

これを記録したに止め管内の住民に発生

の事実を周知し

かつ、防止策の徹底を謀る努力怠って

いた

拡大指摘するならこの

安房保健所の怠慢極まりない防疫姿勢を

して船橋市の方を死に至らしめたと言わ

ざるを得ない

千葉県の保健衛生に携わる者の猛省を

求めます

かくなる上は、

安房郡市、町の保健衛生担当部局が

早急に立ち上がり

住民に対する異常発生の周知と、防疫方

法の徹底した指揮を期待します

 

以後適宜修正更新をします

 

館山市、市長選挙に思う

館山市市長選挙が行われています

新聞に報道された候補者の主張を読み ますと特異なお考えの方がいらっしゃい

ました

「企業を誘致し、ビジネスをできる人を

呼んで館山を盛り上げたい」

「人生の全てをかけ、新しい風を吹かせ

たい」

「市民の声を誰よりも細かく聞き、課題

解決に奔走、市をくまなく知っている」

と主張され

ご自身のホームページでは出身大学の

ご説明までなさっていらっしゃいます

大変な自信家とお見受け致します

併せて、これまで安房に暮らした人々を

無能に見ている内心が見て取れます

他方、

ある候補者はやり残した課題を完了した

いと言い

もう一人の候補者は、変わり栄えのしな

い現職には、任し置けないと言う

後者お二方の主張は簡単に理解出来ます

館山市を良く知る者同士の主張故です

どちらを選ぶかは選挙する主権者の全く

自由な判断であり、その判断基準は

お二人と同じ土俵の上にあります

則ち、候補者も選挙する人々も同等な

館山市民だと双方が無言の内に認め合っ

ての上の事、民主主義の基本そのままに

あります

しかし、

前者の方は異なります

館山市が衰退したのは、館山市に暮らす

人、安房に暮らす人が無能故に衰退した

のだ❗️との考えの元に主張を組み立てて

います

故に、

新しい企業形体を誘致する

ビジネスの出来る人を招致する

と言う発想につながるのでしょう

安房の人々を単なる労働力~奴隷としか

見ていない証左です

為政者が住民を統治するという民主主義

とはかけ離れた発想の上にある考えを持

った候補者とお見受けします

候補者のホームページを拝見しました

出身大学の説明を丁寧になさっています

候補者の出身校という旧帝大の来歴は

安房の人も良く知るところです

戦後の混乱期を脱し360円の固定為替

相場制度を変動相場制へ替えた安房出身

の大蔵大臣は、窮乏の為旧制安房中学へ

の入学が危ぶまれる中、首席で入学し

卒業後は小学校の代用教員を勤めながら

独学で京都大学を卒業しています

有力地方銀行千葉銀行の頭取を勤めた

男も館山市の人間

日本の有名化粧品会社の創業者も安房

安房は、人材は豊富です❗️

地頭もすこぶる優秀❗️

沖縄から紀州に至る海洋民族と関東北部

からの農耕民族と言う全く祖先の異なる

民族が移住して来ての結合が安房の人

だからです

これ等安房の人を蔑視したかの外部導入

策をもって館山市を盛り上げたいとの

主張はあたらない

私は、安房に40代800年以上に亘り

住んでいる

その私でも、昨日私の既得知識に誤りが

有るやもと言う事で基本から調べ直した

そして、新しい知見を得た

館山市にいらして12年

市民の声を誰よりも細かく聞き

館山市をくまなく知っていると言い切れ

るところに何の謙虚さも感じ得ません

このような方が館山市長になっても

館山市の破壊であり

安房の歴史の破壊です

今の安房に必要な施策は

自らの力で安房を盛り上げて行く人材を

育てる事に尽きます

取り敢えず、中学、高校の学力向上です

ある私立高校は、千葉大学合格を勝ち得

たとの事、集中教育体制を始めて15年

かかったそうですが、現代の世相からし

て一つの人材育成策です

学校の心を持った取り組みに頭が下がり

ます

今回、

安房高等学校が集中教育学級を設置する

旨新聞報道がありました

この気風を盛り上げて行きたい

新しい館山市市長には先頭に立って、

この安房を背負って立つ人材育成に勤め

て頂きたい

安房を、館山市を背負う人は安房に生ま

れた人が適任です

主権者の皆様には充分なご判断をお願い

致します

南房総市千倉町

安房高17期)水嶋良昭

(09044300376)

 

私の母校はありません

昭和の大合併で千歳村は千倉町に合併しま

した。直後に分町運動が起こり、旧千歳村

域で1戸1票の住民投票を行い丸山町

を構成するに賛成の多かった地域は岱単位で

分町し丸山町に吸収されました。

則ち、久保区真野は丸山町に、白子区中原、

三島も丸山町に、峰区、安馬谷区が丸山町

となり、

白子区元田、南北、川合区、久保区久保が

千倉町に残留する事になりました。

千歳村の課題は、千歳小学校、中学校の

運営です。

丸山町、千倉町は、教育事務組合を結成し

当面の運営に当たりました。

組合立千歳小学校、千歳中学校の誕生です。

日本でも初めてと言われる住民投票までし

て分町までしましたが学校を分けることは

しませんでした。

しかし、

千倉町は、旧千倉中学校の校舎新築を迫られ

ていて、統合新千倉中学校建設へと進み、

昭和32年9月に開校します。

組合立千歳中学校は同日をもって廃校となり

千歳村が戦後の動乱期に校舎を新築して

開校した新制千歳中学校は、開校以来10

年を経ず存在意義を失くしました。

丸山町は町南部に丸山中学校を新設して

全町の中学生を1校に集めて教育する事と

なりましたが、弊害も起きました。

最北部大井地区の生徒の通学手段が確立出来

なかった事です。現在の国道410号に相当

する道路が未改修で自転車通学もままならず

長狭中学校に越境通学する生徒も生じて

います。


爾後、千倉町は旧健田小学校の改築にも迫ら

れます。

改築面積と児童数による国庫補助率の関連から

組合立千歳小学校児童の内千倉地区の児童を

健田小学校に編入する奇策を企て

「組合立運営による千歳小学校の学力低下

を解消する」を大義名分に 組合立千歳小学校

の解体に着手します。

結果、昭和37年には組合立千歳小学校は

廃校となりました。

丸山町立千歳小学校として存続しますが南

小学校を新設して千歳小学校は完全に使命

を終えています。

明治以来、白子村、峰村、川合村、久保村、

安馬谷村の千歳旧5村からの教育を担った千歳

小学校は姿を消し、そこに学んだ千歳地域の

人々は母校を失くしました。

心のよりどころを失くしました。

千歳地域の70歳以上の年代は千歳小学校

卒業の連帯感により千歳意識を持ち合わせ

ましょうが、それより若い人々には無理です。

明治の合併のとき、安馬谷村、白子村の知恵

者5人が相談した新村名が「1000年継続

する願いを込めて」千歳村だったと聞いて

います。その千歳村の心の中心施設千歳小学校

が100年を待たず行政の都合で廃校となり

ました。

組合立千歳小学校の教職員と児童の名誉の

ためにしっかりと申し置きたいことは、

「組合立故の児童学力の低下」はなかった。

と言う事です。

後に、富浦町町長となる忍足三郎校長先生

の牽引力により学力は高く維持されました。

統合新千倉中学校が入学時に行った試験結果

に千歳小学校卒業生が450人中1位に位置

した事で証明されます。

新丸山中学校でも千歳小学校卒業生は上位に

位置しました。


今考えなけれならない事は教育とはなんぞや

です。

心を無視したものであってはなりません。

住民の心です。「おらが学校」「おが行った

学校」意識です。

行政の効率化を優先して学校が持つ伝統に

基づく自負心を蔑ろにしてはなりません。

北三原の山里にあった分校を廃校後に宿泊

施設に利用出来たのは、地区の人々の「おら

が学校」意識によるものと思います。

分校を統合した北三原小学校がありません。

和田小学校がありません。

南三原小学校がありません。

和田中学校がありません。

南三原中学校がありません。

大井分校は早くになく、丸小学校もありま

せん。

豊田小学校と千歳小学校を統合するという

大義をもって造られた南小学校もない。

山里に、村に、町にあったからこそ学校は

住民の心の求心力でありました。

学校を統合したら住民の心も統合出来たので

しょうか。

出来はしません。住民の心は通学バスに乗れ

ないのです。

千倉小学校はいつの間に出来たのでしょうか。

平成の一桁代、旧健田小学校の一部保護者

から校舎改築の発議がありました。学区住民

を動員して大貫区長を責任者に据え会議を持

った事がありました。

その時点での水面下の接触では、千倉町中枢

は改築計画を描き始めていましたので活動

するには至りませんでした。

但し、町内4小学校を統合するというもの

ではなく単純健田小学校の改築だけをする

というものでした。

よって、千倉小学校の新設は、前述の旧和田

町、旧丸山町地域の学区改悪とあいまって

新市の意向でなされたものと思わざるを

得ません。

狭く旧、旧千倉町の住民意識を見るとき

旧朝夷小学校学区住民と学校の、学力の先行

性に対する自負、平舘忽戸住民の旧忽戸小学

校に対する愛着心は際立ったものがあったと

感じるのは私一人ではないと思っています。

一部例示しましたが、明治の義務教育開始

に始まる150年に及ぶ学校運営に関わる

諸々は、一朝にして瓦解させる事柄ではあり

ませんでした。

明治維新に発起された義務教育発露の心は

継続されねばなりません。

千歳小学校創建時、学校敷地は全てが千歳村

により買収されたものではなく、所有者より

寄贈されたもの、更には使用するを了解願

っただけのものも含まれていたやに聞いて

います。

村民のそれほどまでの学校創建に協力する

心の結晶を後世の行政の目先の都合により

無にしてはなりません。

平成10年頃、旧千倉町のある町議員の私見

により旧千歳小学校敷地を換金処分して旧

千倉町、旧丸山町で分配しようとする運動

がされた事がありました。この町議員氏は

満を持して、町政座談会で提案しますが、

一区民の強い反対意見陳述「千歳小学校

創建時の協力の証しを継承しろ、後世、

文教施設又は公共用地としての計画が出る

まで保存すべし」により、時の山口功町長

は換金処分は行わないと即決しています。

現在、経済施設に利用されているようですが

使用するに当たり、潜在所有者である旧千歳

村民の了解を得たのでしょうか?。

少なくも私は聞いていない。

70年の昔、旧千歳村民は一旦合併した千倉

町からの分町の賛否を住民投票により決して

いる。民主主義の先駆者である、そこに由来

する最大にして唯一の土地処分には、旧千歳

村民の了解を必要とする民意尊重の行政が

求められる。

これこそが民意を尊重する地方自治の原点で

あろう。


他方、白浜地区では現在中学校統合問題が

提起されているそうな。

現校舎は、建設後10数年しか経ていないと

思慮する。

以前の校舎は、維持管理上問題があったかに

も聞いていますが、かの旧校舎は時のわがい

町長が特に採光面に配慮して設計したもの

と聞き及んでいます。

既に完成して15年を経過した隣の千倉

中学校舎の旧態依然とした姿に対する競争心

があったのかもしれません、白浜町長が

千倉町長と房中で同期なので競争心が、斬新

な校舎を発案させたのかも知れません

何れにしろ、旧白浜町が造った斬新な校舎の

欠陥是正のために、新校舎建設を発議し新市が

建設して日の浅い中学校を廃する計画性の

なさは、旧白浜町民への主体性無視と相まって

地方自治体の基本である民意を尊重した自治

経営からの大きな逸脱であります

「子供が少なあなっただもんしょうがねえ

やでよ」

「人数がいっぺえでねえば部活が出えねい

っていゆうばしょうがねえやでよ」の諦め

妥協の考えが根底に存在するに廃校に同意が

出来たとの判断は為政者の間違った独断を

強行する言い訳に過ぎません

前述の通り、学校の存在は住民の愛郷精神の

礎です

郷土を愛する心無くして市の発展はありま

せん

学校の維持と地域の、市の発展は表裏一体と

考えるべし

何よりの証拠は、新市移行後廃校の数に比例

して人口は3分1も減少している現状を直視

しなければなりません

学校を廃校にして他の如何なる施策をしても

市の人口は増えません

住民は

歩いて学校に通える事

役場に、買い物に歩いて行ける事

取り敢えずの病院は歩いて行ける事

が住居を選ぶ基本という

自動車に乗れない子供が大事

自動車に乗れなくなった老人が大事

住民は少子高齢化対策を念頭に住居を選定

するそうです

当市は発足当初は上記3条件が揃っていた

地域が多かったにも関わらず16年をかけて

壊し続けて来てしまった

取り返しのつかない大罪です

まずすべきは罪を重ねない事です

私の母校千歳小学校は無い

30分を歩いて登校すると校門左手の学校園

に熊手を手に立つ校長先生のお姿が目に浮か

びます

統合千倉中学校には同じ感慨は浮かばない

中学校進学の時父親に言われた

「お前は喧嘩ぱやくっていけねい、千倉の

暴力中学には行かないで和田中学へ頼むから

そっちへ行け」と

「千倉中学が暴力中学なら俺が行って直す

からいいよ」と答えて千倉中学校へ行った

思い出位です

親の行った学校へ自分も通える事は最大の

幸せ❗️

この心が合わさった時地域の発展があります

心合わせる基本が学校です

かの千歳小学校の黒光りのする玄関を入ると

天井に「定置網の模型」飾ってありました

2階の図書室には28インチの大型テレビが

設置され昭和20年代から授業に活用されて

いました

これは、有志村民からの寄贈です

校舎裏の1反歩を12に区分けした学級園の

低学年の区分は父兄の助力で成り立っていま

した

子供の教育は、行政と教職員によってのみ

成されるものではありません

保護者、父兄、住民が一体となって力を合わ

せて初めて花開くものと受けた教育からの

実感です

先頭に立つのが行政だと認識すべきです

故に、学校を大切にする事、これが自治体の

最大の使命です

木更津市は、小さな学校を存続させる為に

広域通学制を採用しています

向こう何年後には地域人口を増やし、もって

児童数を増加させ学校経営を安定化させる

目標を掲げています

その為の経過措置として通学を便利にする為

に専用通学バスの運行を始めました

出来ない努力を厭わない自治体も有るのです

衰退する現状に妥協する行政は政治とは

言えません

行政の先頭に立つ者の意識改革は当然の事

ですが、行政職員則ち公務員一人一人の意識

改革こそ大切です

安房が輩出した世界に通用した政治家

安房の山里に育ち、尋常高等小学校を卒業す

る時、親から中学進学は諦めろと言われた

少年をあわれに思った既に嫁いでいた姉は、

亭主に相談したそうです。

地主であるご夫君は、「私が学費を負担する

、里へ行って親に頼んで上げなさい」と言

ってくれました。

明治末期、鉄道開通には20年も待たねば

ならない、自動車も無い時代、姉さんは馬の

背に乗ったのか?野道山道を駆けたのか?

嫁ぎ先から実家まで20km余りを急ぎ、

親に亭主の思いを伝え旧制安房中学校受験

が決まったのは願書提出期限ぎりぎりだっ

たそうです。

受験準備もないままに安房中学を首席で入

学した代議士の卵さんは、安房中学校では

寄宿舎に入り柔道部の稽古に没頭する生活

を送りました。

さすがに高等学校の入試には合格出来ず浪

人するはめに、その間紹介者があって千歳

尋常小学校の代用教員を勤めています。

その後、高等学校、京都大学へと進み、卒

業後は東京都庁へ入りますが、政府の高級

官僚の令嬢と見合い結婚をして昭和10年

代の戦中生活は、家族を安房疎開させて

過ごしました。

第1回総選挙は、中選挙区制で現在の山武

市から千葉市土気以南の広い千葉県第3区

で戦いました。

支持者の核は、安房中学柔道部の同窓生です。

高校入試に滑り代用教員を勤めた時の初めて

の教え子です。

戦中の疎開をお世話された方々です。

皆々、30年を空白としない人脈が候補者

の財産でした。

そして安房の活力が初当選を導きました。

千葉市南部、木更津市から夷隅、山武郡

至る広い選挙区の核は安房中学由縁の活力

でありその活力は本人の人と柄によって形造

られたものです。

相手構わず、誰でも大切にされました。

私も大事にされた一人です。

前述の高級官僚のご夫人 、代議士の奥さん

のお母さんが、安房高校茶道部教授をな

さってくださっていらした関係から私は、

内弟子同様に茶道の先生に可愛がられ館山

のお宅には良く伺っていました。

おばあちゃんの不在の時は、代議士先生は

ネクタイを外しどてらを羽織り寝巻きの紐

で前を結び茶の間に大きな体であぐらをか

いてご飯を食べたりしていました。

「おおい、角さん(女中さん)ご飯もう一つ。

君も一緒に食べろ。」と言ってご相伴に預っ

た事も何度も、

都度、20歳そこそこの子供の話を真剣に

聞いくれていました。

昭和43年のある日伺った時は、玄関で挨拶

してご返事はありませんでしたが、何時もの

習慣で茶の間までは上がって良い事でしたの

で廊下を進むと大きな代議士先生の電話の

声が聞こえ、大変なところへ上がり込んでし

まったと立ちすくみました。

気ずかれた先生は、「こっちへ来い」と手招

きをなさる、茶の間の廊下に座ろうとすると、

中に入れと又手招きをされる、茶の間に座っ

て電話の一部始終を聞く事となりました。

とても他人に聞かせる内容ではなく思いまし

たが、先生は政治の重要性をしっかり認識す

るように諭しかつ奮起を促していらした電話

だったと聞きました。

純粋なご自身の気持ちを、純粋な若者の耳に

しっかりと聞かせおこうとなさったのかと思

っています。

電話が終わっても解説は一切ありませんで

した、聞かされ放なし聞き放しで何時もの

世間話に進みました。

その内容は、半世紀を経た現在でも、安房

君津の政治に生き続けている事柄です。

私は、口外していません、

がお話しの本質が少しでも実践出来るように

心掛けています。


選挙期間中のある晩、裏選挙対策拠点とも

言うべき自宅の事務所に酔っぱらいが訪ね

て来ました。

誰もが対応に苦慮していると、おばあちゃん

が相手を始めました。

禁止されているお酒ではなく、お茶を出し、

ぐずる酔っぱらいをなだめていました。

丁寧に相手をされていました。

私は、後日どうしてあそこまで丁寧にされた

のかうかがいました。

「あの方も私も一票です。あの方に納得して

頂く事の連続が代議士の支持者を広げます」

と言う事でした。

時代は大きく下り平成17年初頭、鴨川市

で千葉県主催のある集会がありました。

県主催とは言いながら、参加者はほとんど革

新系の人達でしたが、保守の来賓の方の話し

は鴨川が生んだ代議士先生の偉業の羅列に終

始しました。

亡くなられて既に4半世紀を経てなを、党派

を越え、支持勢力を越えて話題にされる事に、

代議士の偉大さをしみじみと感じました。


話題は現役時代に戻ります。

昭和46年、戦後日本が長く維持して来た

対ドルレート360円はアメリカとの軋轢を

生みどこまで切り上げられるか?一時的な

変動相場の中で国内の経済情勢を見詰めな

がらの交渉となりました。

当時国内では、330円位で妥結出来れば

との意向でワシントンでの交渉に臨みました。

結果は、308円を基準としてプラスマイナ

ス2、5%の範囲で運用すると言うものでし

た。

則ち308円を基準として、上限約315円

下限約300円の範囲で為替レートを運用す

ると言う事です。

国内では意見が沸騰したと記憶しています。

しかし、日本政府代表の大蔵大臣は、

「いずれ、又同様な交渉が成され最終的に

は自由な変動相場に移行する事になる、今

少しの期間ぬるま湯に安住するより産業界に

は次のステップを見詰め頑張って頂きたい」

と厳しいと思われる正論を披れきして納得

を求めました。

今日、令和4年4月12日の円相場は125

円プラス、当時の3倍に価値を高めています。

それでも、円安で輸入に支障をきたしていま

す。

126円に値下がりした円相場についての

感想を求められた現財務大臣

「私のコメントが円相場に影響してはいか

がなものか、意見は差し控える」としか言わ

なかった。

引き替え、スミソニアンでの会議で変動固定

相場308円で妥結させた当時の大蔵大臣の

自論持論がいかに正しかったか。改めて考え

させられます。

自らの利益ではない、自らの懐ではない、

国益に全精力を傾け続け、正論を言う姿勢

安房の後輩の一人として誉れを覚えます。


願わくは安房を背負う今の政治家が、ご紹介

した代議士のように滅私奉公の精神で政治に

関わって頂きたいと思うものです。